miyukie33ok’s blog

閑長のひとり言

閑長のひとり言

絵画鑑賞

三者燦燦・・

ルソーという画家は複数いても高々お二人で、時代も画風も大きく異なって混同することは少ないが、ラ・トゥールとなると、三人いて、覚えてしばらくすると忘れてしまい、その度に蠟燭とポンパドール夫人とランボーに再会することになる。 夜のラ・トゥール、…

ふたり静か

色に魅せられる、という絵は少なくないが、魅せられた色が絵の中の一色という珍しい例が、映像の上村松園の掛け軸である。美術品バラエティ番組で紹介され、録画を漏らしたので、再放送を約一か月に亘って「張って」ようやく再び巡り合えた。左側の母親と思…

達意の減筆

セザンヌの「塗り残し」は本のタイトルにもなる位、有名なエピソードだが、いわゆる未完の魅力は近代以降の事と思っていた。最近、「Non finito」、“ 未完成 ”なる技法がルネサンス時代にもあったと知って、啓発された。 “ Non finite ”の好例、「ピエトロ・…

解禁間近 ―

鮎の眼は菱形に描くと鮎らしくみえる。彫刻家の伯父の教えで、伯父は日本画家をしていた父から教わったという。伯父の父だから閑長には爺ちゃんになる。 猪の眼はハート形をしてい、描くときには鼻ずらに向かってハートの先端を描くと良いという。これはもの…

過ぎたるも尚・・

上村松園に重要文化財の作品はいくつあったろうか。確か二点と記憶する。三点目の最右翼が、「葵の上」に想を得て源氏物語の六条御息所の生霊を描く「焔」という。美人画の松園の中では異色で、髪を噛んで振り返る青い顔に、嫉妬に翻弄される姿が現われ,白…

一行だけの文章、断絶したメッセージ

パルコ出版のアメリカン・ノスタルジア『エドワード・ホッパー』の解説はロイ・グットリッジが書いている。そこでロイは、「ホッパーは、人間を突き放して寂寞感を出している」とあって、感心した。 ホッパーの絵の、無機質、無造作に描かれた縦線と横線は、…

魔人 怪人 画人 伝

ルネサンス画人伝、中国画人伝、本朝画人伝、現代画人伝。画人伝ばかり続けて読んでいると、画人グループには四つか五つ位の極があるように思う。言葉にしてしまうと平板だが、ラファエロ、ゴヤ、大観、崋山、槐多、野見山暁二などのマイスターが極の核にい…

栖鳳の一線

「よく写生した画題は線を省けるが、そうしなかったものは線が多くなる・・」 一撃の一線を体得した画人のことばで、成程と感服してしまう。

鉄人の書

「良い絵には中心があって、右回りまたは左回りに画面が構成され、最後に締めくくりがある」 『「古書画」目利きの極意 - 鑑定の鉄人part4』で、著者の渡邉包夫が示す、“ 優れた絵 ”の特徴である。日本画について語ったものだが、西洋画にも中国画にも当ては…

ふ・じゅく

“不熟”は、岡倉天心が愛弟子の菱田春草を評した言葉と記憶する。春草は、明治を代表する夭逝の日本画家である。 あとに続く語を否定的、消極的に受ける“不”であるが、この語句だけは例外で、若々しく、脈打つような可能性を感じさせる。未熟とは異なるニュア…

劉生節

岸田劉生は『初期肉筆浮世絵』を書いて、肉筆の浮世絵を “ 濃い美 ” “ 苦い美 ” “ 卑近美 ” など、劉生的な切り口で語っている。語り口は一刀両断である。例えば北斎は「いいところもあるが覇気が強く、意志が見えすぎるので長い鑑賞には堪えない」と処断す…

彼岸を描く絵

ジャクソン・ポロックの墓石をみていて、ポロックの描く ” ドロップ ” に似ていると思った。 当時にフト、絵には対象の此岸を描いた絵と、彼岸を描いた絵があると思いついた。 此岸と彼岸、表層に裏層、実像や虚像、外面に対する内面 リアリズム絵画は、極写…

無の作為 民の権勢

柳宗悦の民藝は“民”の水準を超えて、あたらしい原理になってしまった。 西田幾多郎の無は、「無」というには随分としゃしゃり出て、仕切り出した。 絵から作為を除こうと努めた画家がいて、齢九十近くになった作品は形態も関係性もみえてこない。漠然とした…

描き過ぎと偏愛

レオナルド・ダビンチは「モナリザ」を終生、加筆したという。そのエピソードが画聖にして万能の天才レオナルドの声望と「モナリザ」の神格性を一層高めているようにみえる。 けれども普通は、加筆した絵、少なくとも加筆が過ぎた作品に名作はないと思う。描…

ヘタうま ワル達者

浜田庄司は、ホンの数秒で済ます焼き物の絵付けを「数秒と数十年かけて描いている」と語ったという。 サッと上手に描ける画家さんがいるけれど、サッと描いたことが判ってしまう絵はそれきりである。閑長はそういう作品を、ワル達者な絵と呼んでいる。時を重…

開高健と「等伯画説」

自己中鑑賞者の閑長は、「“しん”としている」か「騒々しい」か、を絵の判定基準としている。「“しん”としている」絵を愛好し、「騒々しい」絵は、評判が高くても敬遠している。端的に言うと好まない。“しん”は、閑かという意味だけなく深く、強い美を意識し…

人知れぬ美しさ

最近入手した画集に画家の署名と識語があった。署名は承知していたが、識語には驚きかつ喜んだ。「美しさとは目立たぬことである」とある。画家は本荘赳、小学校の先生を長く務めた平塚の画家さんで、あえて盛名は求めなかった。識語のとおりの境涯と画業だ…

中国数千年の多様性

荊関、薫巨に李成・范寛・郭煕など、巨人犇めく中国絵画の流れの中で、呉昌碩に斉白石、張大千ら、近現代画家の作をみるにつけ、能品、妙品、神品、逸品に、"商品”カテゴリーを新設すべきとの思いに駆られる。 ある美術史家は中国の宋元画はイタリアルネサン…

みちが見せるもの

右か左か、前進か後退か、止まるか往くか。 道を描いた絵には、選択という要素が籠っている。 一本道でもそうだが、四つ角、三叉路などはなお更である。 中折れ路は、分岐点のようである。 途の周りの景観、オブジェクトは行路の人、出来事、事物にみえてく…

往く人は、

長谷川利行は明治24年に生まれて、昭和15年に49歳で死んだ。大正の15年間は通して生きたわけだが、「廃道」はその末年に描かれた。利行35歳の作である。 この絵は、第回帝国美術院展に出品された記録があるが、その後失われた。今は「夜の道」と題する歌仙紙…

旋回と締めくくり

「良い絵には中心があって、右回りまたは左回りに画面が構成され、最後に締めくくりがある」 渡邉包夫『「古書画」目利きの極意 - 鑑定の鉄人part4』に書かれている、“ 優れた絵の特徴 ”である。日本画について語ったものだが、西洋画にも中国画にも当てはま…

ガロン画論

村上華岳の「画論」を読んで、この人ならばこそ聖性を備えた美を生み出せたものだと、山種の「裸婦図」や多くの仏画を目に浮かべた。文章には使命感と節度、それと意志が込められていた。 女三四郎といわれた柔道の山口香が著書で、アスリートに人格を重ねて…

巨匠の骨は

東山魁夷の作品は静かである。 少し前、長谷川等伯の「等伯画説」を引いて「しずかな絵」と「いそがわしき絵」について触れたが、東山魁夷の作品などはなど、「しずかな絵」そのものである。代表作「緑響く」など、張り詰めていながら、それでいて静謐な世界…

南風と馬鈴薯

なにげなく昔の画集をみていて和田三造の「南風」を目にし、ゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」を思い出した。人物配置が似ている。シテにワキ、ツレ、小役がそろって画面を固めている。役柄がある。どちらも労働者を描いた匂いのある絵である。 南風は、漁師に…

しろうと閑長の“白”談義

白の油絵具に凝っている。描きもしないのに、クサカベとホルベインの白を買い集めている。色、艶、質感、経時変化、ヒビの発生等々を調べる積りである。つい先日、レンブラントという海外のメーカーのミックスホワイトを手に入れ、この投稿を書いている。レ…

御伽草子と絵日誌 

長谷川等伯はその画論「等伯画説」で、「これにつけて思ふに、しずかな絵、いそがわしき絵など、心をつけて感ずべきことなり」と言っていて、共感した。共感というのが僭越ならば、意を強くした。閑長の絵画見立ての最高規範は、「しんとしている」か「騒が…

額の眼差し

この絵を見た時、神聖さを感じた。本の扉絵として小さく採り上げられていたのだが、結局、その本を買ってしまった。 作家や画家など、文化人所有の名品は少なくない。川端康成旧蔵の「凍雲櫛雪図」「十便十宜図」は今や国宝である。川端は「美術品を観ている…

奥へ内へ

点でも〇でも、真っ更な上に書けば注目し、視点が集まる。その分、宙に浮いてくるし、前にも出てくる。それを奥に、奥に描くのが絵だという。影や暈しのみならず、線の奥行きや描法にも左右されるらしい。だが、もっとスピリチュアルな何かが作用していそう…

劉生の二書

「劉生画集及芸術観」 言葉を尽くし、何度も繰り返して、“深い美” と “しんとした美しさ” について語っている。訥弁である。切れのある修辞や比喩でない分、真情が伝わって、読み飽きない。汲み尽くせない。閑長にとっての美への尽きない道しるべである。「…

いしが活かし、いしが弑す

レオナルド作と騒がれるカターニャの自画像を観て、率直に後人の描いた理想像と思った。眼に意志がない。意欲、狂熱、自負、逡巡、悔恨、レオナルドであればそのどれとも特定できない情念が感じられてよい。カターニャの自画像から閑長が感じ取るのはせいぜ…