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閑長のひとり言

閑長のひとり言

無の作為 民の権勢

 柳宗悦の民藝は“民”の水準を超えて、あたらしい原理になってしまった。
 西田幾多郎の無は、「無」というには随分としゃしゃり出て、仕切り出した。
 
 絵から作為を除こうと努めた画家がいて、齢九十近くになった作品は形態も関係性もみえてこない。漠然とした色の塊と絵の具の肌があるばかりである。(しかし行列みたいな何かがあるぞ)。作家はそれでよい。鑑賞者はどうしたらよいのか。

 ポロックは、自分の絵は考えずただ見てくれといった。音楽を聴くように。
木の葉を揺らす風の音。船べりを叩く波の音、静まり返す雪の音。

 作為を取り除くという大それた作為。天然自然のあるがままの現象。
 どちらなのかは誰が判定するのか。考えつつ作品をみつめている。

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描き過ぎと偏愛

 レオナルド・ダビンチは「モナリザ」を終生、加筆したという。そのエピソードが画聖にして万能の天才レオナルドの声望と「モナリザ」の神格性を一層高めているようにみえる。
 けれども普通は、加筆した絵、少なくとも加筆が過ぎた作品に名作はないと思う。描き込んだ絵は、逡巡がみえ、真意が埋もれる。

  構図の脆弱は線の数で補えない。
  画題の重さ、深さはなぞ繰りでは表せない。

 管見である。モナ・リザに尋ねても、黙って微笑むばかりである。

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ヘタうま ワル達者

 浜田庄司は、ホンの数秒で済ます焼き物の絵付けを「数秒と数十年かけて描いている」と語ったという。

 サッと上手に描ける画家さんがいるけれど、サッと描いたことが判ってしまう絵はそれきりである。閑長はそういう作品を、ワル達者な絵と呼んでいる。時を重ねていない。60~70年代の街並みと木立と描いた絵などに多い。それ以外にも散見する。

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松葉散らしの絵

 五線譜に松葉を散らしたような図形は「ビュフォンの針」という数学問題である。
 18世紀、博物学者ジョルジュ・ビュフォンが提起した。多数の平行線を引き、そこに針を落すならば、どれかの線と針が交差する確率はどのようになるかという問題で、線の幅と針の長さには関連した決め事がある。積分幾何学を使ってこの問題は解けるといい、同じ方法を応用して、円周率の近似値も求められるという。
 詳細を解説する数学知識は持ち合わせない閑長だが、その作図を思わせる一枚の絵に巡り合った。今回、映像は間に合わなかった。無作為の中の法則と無作為の中の含意がヘンに呼応する例として、次の機会にご紹介したい。

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てんぴん

 大谷翔平の“ショー”タイム!は、最早日米をこえてワールドワイドな現象である。投打にわたる活躍という言葉を高校野球からメジャーにまで拡大した。まさに野球の申し子である。
 将棋の羽生九段が通算100タイトルを前に足踏みをしている。最高位竜王タイトルにあと一勝と手をかけて、寸でのところで逃してしまった。しかし思うのだが、すんなり100冠を手にしていたら記録となってもドラマにはならない。この転載をして悪戦苦闘して、達成または逸してこそ劇的な偉業となる。彼も又、将棋の申し子である。

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せいちょうぶし

 松本清張の好きな短篇小説は「真贋」と「笛壺」である。好きが嵩じて初出の「文藝春秋」まで蒐めてしまった。好きに理由はないけれど、主人公の共通点は、すぐに浮かぶ。

 ・研究者等の専門職種
 ・中高年
 ・不運な境遇
 ・恵まれない女性運
 ・悲劇的な結末
 
 なんのことはない清張お得意のパターン、お家芸といえる。「真贋」は絵画界に、「笛壺」は蔵書の処遇に、特に共感している。
 
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