映画「追憶」はホテル前で始まり、同じ場所で終わる。そのあいだ、時代は往き、記憶は往還する。恋ごころも揺れるけれど、アルバムの写真のように動かない。時代を渡った人と、渡らず居残った人の物語である。負け上手とは、本人が言ったら自覚である。ハリウッド流にいうとネバーギブアップである。バーブラでなければ演じられない役、ロバートの眼差しもハリウッド金髪にしては含蓄がある。ウッドウイ、クッドウイと聞くと陶然となる。
久しぶりにハリウッド映画「追憶」を観た感想である。
好きな外国の著作は邦訳の全部集めたくなる。そんな本が何冊もある。今、思い出すだけでも、ゲーテ「ファウスト」、カフカ「審判」、メルヴィル「白鯨」、ブロンテ「嵐が丘」、ドストエフスキー「罪と罰」、ベルグソン「時間と自由」等々。
集め易いのはマイナーな言語の長編小説。典型はロシア文学である。有名な「罪と罰」でも邦訳は八例しかない筈である。
これが程よい長さの英米文学で、学生向きの著作となると翻訳数が増える。「嵐が丘」だと十五も邦訳がある。マルケス「百年の孤独」のようにノーベル文学賞の著作でも、いまだに翻訳がひとつという例もある。これは独占翻訳権だけの問題ではなかろう。
翻訳を比較すると、気合の入れ方がよくわかる。国立大学名誉教授を務めた著名な英文学者による「嵐が丘」の翻訳は、読み始めてすぐに先行訳の言い替えだとわかる。意味は通じるが、ツギハギで日本語が流れない。重訳ならぬ替え訳だな、とほくそ笑む所以である。
翻訳の好みも変わる。流麗な訳より生硬でも手触りのする訳を好むようになる。
翻訳蒐集が進むと原文でも読みたくなる。
I ’m animated with hunger, seemingly I musn’t eat.
どうも喰わん方が良いらしい。空腹だと力が漲る。
開高健の「オ―パ」「オン・フィッシュ」が滅法面白い。
文が話しかける、というより、が鳴りたてる。ウイスキーをブッくらって、大ナマズを釣り上げてハンマーでドヤし、塩焼きにしてビールで流し込む、とは憧れのアウトドアライフである。世界各地を釣魚行脚するこの紀行は、グルメ小説にもご当地紀行にも、風土考ともなっている。
ボードレールの寸言「ここ以外のどこにでも行きたい」ばかりが開高を釣りに駆り立てたのではなかろう。家庭に居たたまれない事情があったのかもしれない。とまれ作家は、国内外の水辺に獲物と安息を求めたのである。
強妻は哲人と釣り人をつくる。その副産物として豊穣な著作を後世に残した。ウォッカをブッくらって続きを読むことにしよう。
若冲が好きになれなかった。と言うか食わず嫌いだった。作品が騒々しく思われ、くどくどした印象を拭えなかった。同感の人も少なくなかろう、と思い込んでいた。
近頃、若冲を特集した番組がいくつか流れ、画家として出発する前、二年ほど丹波に隠棲したことを知った。前から知っていたが丹波の様子が詳しくわかった。明るい視力と温かい眼差しがわかった。
それやこれやがあって、若冲の過剰は慈しみだろうか、と思い至った。簡素の美や余白の効果を知らない若冲ではあるまい。鑑賞の眼を度外視し、媚びない結果が溢れるような作品になったのかもしれない。そう思うと描かれた小動物がポーズをしていないように見えた。
さわがしいのは自分の眼で、形容詞でしか評価できないのは、情緒先行だったか。結論を出すのは早いけれど、還暦を過ぎて対話を続ける画家が増えた。返答はないが絵が発するメッセージは簡単には汲み尽くせない。
これはもう投稿したろうか。とっくにした気もする。
雪の結晶はなろうと思って成ったのではない。成るべくして成ったものである。
その重いが時間を経て結晶し、こんな寸言になった。
「成るようにして成ったのが、本質である」
こういった迷言、妄言は他にもたくさんある。
第一弾をご披露します。
「理屈とほこりは何処にでも着く」
「生きるに生き過ぎなし」
"行き過ぎなし"は、以前、本に出ていた寸言からインスプレーションを貰った。
平山郁夫画伯の奥さんが書かれた人回顧本だった。
「花、咲くに任せよ 人、生きるに任せよ」