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閑長のひとり言

閑長のひとり言

令和30年の風景

 平成年間は30年あったが、最後のおおよそ5年で平成になった。最初の10年、15年くらいはまだまだ昭和だった。平成を平成たらしめたのは先ず大震災であり、そしてスマホとAI化の進展だった。
 令和は、頻発する自然災害とコロナの世界的蔓延でいきなり、垂直的に令和になった。歓迎せざる幕開けだった。閑長が令和30年の風景を眺めることはなかろうが、科学技術の進歩とAI化の進展は想像がつく。想像以上であっても驚かない。想像がつかないのは、各国の選挙と国政の行方、それに財政と景況である。つまり世界の政治・経済であり、歴史の行く末である。世界不況はないか。投票が急進化していないか。国際関係は穏便か峻嶮か。平和・協調か紛争・孤立か。

 「歴史の母親は必然だが、その父親は誰も知らない」といったのは、ポール・ヴァレリーだが、この一文を小林秀雄が著作で何度も何度も引いている。ポールと秀雄の時代に政治経済はあっても、AIはもちろん、環境、食糧、人口、生物化学等々は視野の外だった。二人の見立てが、今日、一層激甚化する要因に事欠かない。
 必然の流れを歩むものと、偶然性に左右されるもの。令和を生きるということは、その中を生きることになる。
 
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抽象の母なる“制約”

 正月特番で縄文、弥生のこころを採り上げた番組が流され、王塚古墳の壁画が日本独自の意匠として焦点が当てられていた。らせん模様や三角形を組み合わせた文様で、動物や人物を描いた中国や朝鮮半島の壁画とは全く異なる独自の意匠という。ゲストの女性心理学者は、“数学的で法則性がある文様”と評していたが、閑長は一見して海洋からのインスプレーションを感じた。らせんはうず潮で、三角形の組み合わせは波頭と、水面に反射する太陽光である。王塚古墳が福岡の海浜に遠くない場所であったので、得心すると共に意を強くもした。番組名は「古代人のこころ」だった。

 ペルシャ絨毯の幾何学文様は、荒涼とした乾燥気候の所産という。環境が制約されると抽象デザインを胚胎するらしい。
 見渡す限りの海原と大空は、シンプルで単調な制限的な視界である。海洋は、漁獲は豊穣の源でも、陸と比べて制約の世界といえる。制約が人間のイメージを膨らませ、幾何学的に文様の母体となる。死後の世界への入り口である古墳が、生物としての生まれ故郷を希求する意匠で飾られていても、不思議でも突飛でもないだろう。

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ペヨング、よろし!  

 おせち料理を食べ尽くし、買い出しに行ったスーパーで「ペヨング」ソースやきそばを見つけて初笑いした。贔屓のカップ焼きそば「ペヤング」の廉価版らしい。メーカーは異なる。まだ賞味してないが、本家の隣に陳列してあったので、味も意識してチャレンジングであってほしい。

 絵画の世界にセルフコピーというものがあって、損保ジャパンの「ゴッホのひまわり」はロンドン・ナショナギャラリーに倣ったものらしい。デ・キリコばかりでなく、ルノワールピカソも、初期作品や評判作品のセルフコビーと思わせる作品を制作している。

 セルフコピーで売り絵画家に堕する画家は多い。巨匠といわれる画家は、ルーチン的な反復を脱皮のプロセスとしている。繰り返していると窮屈な殻がわかって飽き足らなくなるのである。速水御舟のいう「梯子をおりる勇気」である。どういう梯子をどう架けるかは、作家の感性と意志といえようか。

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好みの語釈 用例の妙

 新明解国語辞典が改定され「言い換えにとどまらず本質に迫る」というキャッチにひかれてパラパラ立ち読みした。
いつも引く語は決まっている。最初に「励行」これが、“励み行うこと”と書いてあるとがっかりする。ついで「宗教」。OEDのRgligionの説明が頭にこびり付いていて、「Particurar system of faith and worship. Human recognize of superhuman controlling power and esp.」に近い語釈だと気に入ってしまう。

 閑長の愛用は、岩波国語辞典、新潮現代語古語辞典、学研国語大辞典である。大型の学研辞典は、文学作品からの用例が豊富で心強い。引用作品は結構古いが、閑長もロートルである。思うに語釈は、帰納という作業の中で、相当、忘れ物と落とし物をしている。この点、用例を添えてくれると、ニュアンスの漏れが少ないように思う。実定法と判例法の差に近い。

 あと先になったが、改定版新明解国語辞典は良い辞書と思う。書棚が開いていれば青版を一冊架蔵したいと思った。岩波国語辞典、新潮現代語古語辞典については、日を改めて記事にさせて頂きます。

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アウトプットのDNA

 大谷崎こと谷崎潤一郎は、自身の分身饒太郎を主人公とする短篇で、思想書でも小説でも最初の数ページを読むだけで中身がわかってしまうと書いている。100%本当ではないとしてももちろん虚構ではなく、事実潤一郎はそういう体験をしたのであろう。
 西田幾多郎は、どんな哲学者のものでも「全集」を所蔵しない理由として、主著さえ読めば思想の隅々までわかってしまうからと述べている。ハイデガーの蔵書も少なかったと書斎を訪れた日本の哲学者が回想している。
 読み手の読解力もさりながら、著作の片言隻語にまで思想が行き渡っている書き手の方も偉大である。

 哲学者という人種は、生まれた時代と国に関係なく、いついかなる所であっても同じ思想を開陳するものだと言い切った哲学者がいた。たしかプラトン学者のブラックだったと記憶する。

 エピソードは違っても、汲み取れる意味は同じかもしれない。著作者も著作にも揺るがない、貫徹した遺伝子があるのだ。

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  「街 灯」

大きい小さい騒々しい

 芸能人格付けランキングという番組で、正解もし、間違いもしたお正月。判断の基準はやはり、モノの大小か。まとめようとしているか、謳っているか。騒々しいのはダメ、こまいのはもっとダメ。そんな基準で正答率八割だった。
 
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大晦日に思う

 以前、「七つの信州人」という本が出版された。信州人は地域ごとに異る気質を持ち、人括りにできない幅を持っている。土地が南北に長く、山、谷、峠、川などで仕切られるという物理的な環境の所産だろうか。

 閑長は、信州文化に限らず、地方文化は多重構造をしているように思う。県規模の地域文化の上にコミュニティ文化がある。長野でいうと、信州人としての側面と、上田人、飯田人としての貌の二つを知らず知らずにもっている。一人の人格の中に、例えばズク無しの部分は共通で、プラス優柔不断であったり、俊険な性格が加わったりする。県内を転勤して感じる閑長の見立てである。

 さらにその基層には、ネイション、日本人としての性格が横たわっている。それが不思議と混ざり合わずに共存している。多層構造を概念図にしてみるとさぞ面白かろう。くんずほぐれず、しかも混ざり合わない複数の性格に興味は尽きない。

 似たような記事を以前書いた気がする。「はてな」の投稿で、これからも少しでも文化に触れていきたい。

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  雪の大晦日