miyukie33ok’s blog

閑長のひとり言

閑長のひとり言

匂いの記憶

小学一年生の最初の一日、一時間目は音楽で、二時間目は国語だった。
音楽で最初に習った歌は、校歌だったと思う。
最初の国語の授業では、担任の女の先生が、教科書をなでてみなさい、と言い、
続いて、匂いを嗅いでみなさい、どんな匂がしますか? と質問した。
たしか、誰も答えなかった。
六歳の閑長は、工作の粘土と桜の花の香りが混ざった匂いに思えた。
恥ずかしくて発言はできなかった。
表紙には小さな型押しの点々があって、色は桃色だった。
国語の教科書の最初のページは
「ひよこ ひよこ」で、
次か、その次ページには、
「はなこがきた」「たろうといっしょにきたの」とあった。
新一年生の妹の花子が、兄を追って学校に来たのである。
たろうは兄妹が可愛がっている柴犬とわかった。
小一の初日のこれだけの記憶の中で、教科書の匂いは今でもはっきり思い出される。

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強大な視野と頭脳

 豪傑の名にふさわしい大学者の一人に今西錦司がいる。民俗学レヴィ・ストロースに比肩しうると思う。
 今西錦司の主著の一つ「生物の世界」は学術論文並みに難解である。その視座は、生物界の構造から歴史、環境、社会にまで及び、フツーの講談社文庫の一冊には思えない。
 今西提唱の「棲み分け理論」は東洋的自然科学の金字塔であろう。底流になぜか“慈しみ”のこころを感じてしまう。
 しかし、この大学者の肉声はといえば、そこらの縁側爺さんのように、さばけて、ザックバランなところが、人間の多面性を体現しているようで、それも実に愉快である。

 因みに冒頭の「豪傑学者」なる比喩は、博学強記の谷沢永一から借用した。同氏が中国史の泰斗 宮崎市定に使った形容である。そういえば両豪傑ともに京大の先生である。

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賽はこれから投げられる・・

 モンティ・ホール問題は、モンティ・ホールが司会を務めるショー番組で出された、三択をネタにした確率問題である。詳しくは、ネット検索でご閲覧頂きたいのだが、要は、三択問題を、「一枝」と、「二枝」のグループに分けて二択にし、どっちを選ぶかという問題と変わらないのである。普通、誰もが倍の確率の「二枝」の方を選ぶだろう。
 誤解の始まりは「モンティ氏が一つのドアを開けて、しかもそれが外れていた」という状況を確率的に折り込んでいないことに尽きる。つまり、「状況」が推移し、消費しているのを無視しているのである。
 かかる状況に対処するため閑長は、「状況確立」なる数学分野を創設すべき、と思っていたが、すでに「事後確率」なる分野があって、モンティ・ホール問題も、その一つとみなされているらしい(Wikipedia)。
 実はここまでは以前に書いた。
 今日は、懲りもせずもう一つ新しい確率分野を提唱したく思う。即ち「確定確率」と「不確定確率」である。「現在確率」と「未来確率」とか、「ゲームセット確率」と「勝負確率」と言い換えてもいい。他の呼称もたくさん考えられる。
 お察しの通り、結果を知らないだけで事実としては固まっている場合の確率と、結果がまだ定まらない場合の確率を指す。
 手も足も出ない不確かさは横に置いて、何とかしようのある不確かさに取り組む未来志向のアクティブな確率論といえる。見方によっては賽が投げられる前の「丁・半」ではあるが・・。
   
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偶然と純粋

 芸術の品格の尺度を「制作の純粋性と成果の偶然性」とし「火の神の思し召しである焼き物」をもって「最も品格の高い芸術」と言ったのは、たしかポール・ヴァレリーだった。
 その伝でいけば、焼入れをもって完成させる日本刀の品格も同じように称揚されていい。以前、知り合いの刀工さんに、お弟子さんにすべて任せて、ひとつの工程だけ自分で行うとしたらどこか、と尋ねたことがある。この素人らしい質問に、微笑を浮かべながら「焼入れ」と応えた刀工さんの表情が印象深い。もう何年も前に物故されたが。
 刀剣の魅力は姿に波紋、そして地金である。優美で実戦的な反り、働きが効いた個性的な刃文、何よりも地金の色と目、肌が、焼き入れという偶然かつ一瞬の工程に左右されると思うと、作り手も祈りにも似た、純粋な気持ちになるのだろう。偶然は神の思し召しで、純粋の母でもある。

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数の召命

 ゴットフレイ・ハロルド・ハーディは20世紀初頭のケンブリッジの数学者で、閑長の贔屓である。電話や時計嫌いのところに惹かれてします。彼の自伝的著書はもちろん、解りもしないのシュプリンガーの数論の著作二冊を架蔵している。
 そのG.H.ハーディが数学者として点数をつけるとすれば100点満点としているのが、インドの大天才ラマヌジャンで、直感的、天才的な閃きで数論の定理を発見し、「魔術師」と呼ばれている。詳細は割愛するが、「1729」という数字を聞いたラマヌジャンが、「2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数(1729 = 123 + 13 = 103 + 93 )」と即答したというエピソードが残る。閑長が驚くのは、「2通りの2つの立方数の和で表せる」という部分でなく、「最小の数」と判定したという点である。兎も角、驚異的な数覚を持っていた。
 けれどもラマヌジャン、数学の専門教育を受けていなかったため「証明」という概念を持っていなかった。閃いた「定理」は、寝ている間にナーマギリ女神が教えてくれた、などとしていたという。
 閑長は、ラマヌジャンが証明しなかったのは、教育云々の結果ではなく、証明の必要を感じなかったからと思う。数字の語り掛けを聞いて、書いたからだと思っている。唐突であるが、さながら神の子イエスによるマタイの召命のように、前触れも前提もなく、降りかかってきた、に近いように思う。証明は人の業、直観は数の導き、なのである。

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 シュリニヴァーサ・アイヤンガル・ラマヌジャン ネット収集画像 


 

 

 

時間と逆比例

時間と曲比例※

存在と時間」の“時間”は本来の時間ではなく、世界、世間、他人、事物の代名詞のように思う。そんなハイデッガーの書きっぷりである。
 ことほど左様に、哲学上の時間は、時間という名称で代表する哲学的問題は実に多いように思う。だから古今数多の哲学者が論じるているが、やはりベルグソンの「純粋持続」がいちばん有名かつ難解と思う。時間をかけて読んでもいつまでもスッキリとは判らない。
 閑長が信奉するのは、時間という不消化物にはへそ曲がりの解釈むが当てはまるという縁側流、路地モノ哲学である。
 時間が経過するほど、最近に思え、小さな出来事ほど、かえって重大に感じられる。大きな出来事は、アクリルケースにでも入って、机の上で停止している感じがする。

 9.11同時多発テロから20年経っての、時間についての寸感である。
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 ※曲比例は、閑長の造語です。