冒険の相棒は・・
SEIKO セイコー 6105-8110 セカンドダイバー、別名植村モデルは、冒険家植村直己が北極探検に使用した時計として、コレクションアイテムである。こだわりが身上のマニア諸氏はさらに、植村が何年のどの時期のモデルを使ったか、にこだわる。巷間言われているのは、セイコー セカンドダイバーの1975年以降の後期モデルということになっている。
しかし閑に任せて文献を漁ったところ、植村は74年の5月に結婚し、12月に北極圏に出かけている。ご令室の証言によると、この時計を気に入った植村は、東京にいるときからこの時計をはめていたという。とすると、74年の前~中盤の生産モデルが植村機である可能性が高い。というよりほかに考えられぬ。
74年の裏面刻印がサークル型のSEIKO セイコー 6105-8110 セカンドダイバー、植村ファンならこの時計を探求すべし。
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とうもんのどうもん
辛坊治郎、鴻上尚史、いとうせいこう、町山智浩四氏の、それぞれの分野でご活躍、同慶の至りである。
さてこの四氏と閑長とは、大学学部の同門で、期間の長短はあるが、在学期間が重なっている。生協食堂で120円の“カレー生野菜”を隣り合って食った可能性がなくはない。在学生も入場料を払う早稲田祭に憤激し、核マル支配の法学部祭での休講を喜んだ若き日を偲び、彼らも思いを同じくしたかと思うと、交流がなくとも妙なシンパシーを覚える。
さてほぼほぼ同い年なら皆アラ還であって、忍び寄る衰えも変わりはない。自分も同じだけに、四氏の言葉の切れの衰え、レトリックの不冴え、合いの手の遅れなどなどがよくわかる。言語脳と認識脳が別々にあって、言語脳が勝手にしゃべるのを「いいこと言ってるじゃん」と聞いている別の自分がいた時代が懐かしく、眩しい。
けれども、閑人している閑長も韜晦を楽しみ、こうしてブログを日課にしています。一枚看板の諸兄、今しばらく気張りましょうか。
“逆”説的表出
ウィリアム・ブレイクの「地獄と天国の結婚」は逆説の書である。
その言葉は思考を活性させる。
「コントラリーがなければ、進歩がない。人間には、魅力と反発、理性とエネルギー、愛と憎しみが必要である」
表現は挑発的で逆説的である。
「過剰の道は知恵の宮殿につながる」
だがしかし思考は反面、現実化する性質をもつ。ニーチェはいう。
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」
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かなたの表現
「耳に聞こえるメロディは甘く美しい 聞こえないメロディはしかし、もっと美しい」
ジョン・キーツ
「小さな真実は明晰な言葉をもつが、 大きな真実は大きな沈黙を持っている」
ラビンドラナート・タゴール
こころを打つ知恵の言葉である。だが閑に任せて付け加えたい。無声と沈黙には場面がある。中心になっては空疎なだけで、メロディと言葉があって活きる。
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