大観力
閑長が横山大観の画に求めるのは、ち密さでも繊細さではなく、描写力でもない。では品格か、画境かと聞かれれば、そればかりでもない。
「老子」の顔貌や「風蕭々兮易水寒」の犬の四肢にみえる、大観にしかものせぬ表現の世界である。この世界は、俗に良い大観、そうでない大観などというときのそうでない方に多い。
その筆を大胆とか鷹揚とか言ったのではしっくりこないので、閑長は勝手に“ 大観力 ”と名付けている。主に技術面から大観を「ありゃ大観なんかじゃない、小観だ」などと揶揄する評論家諸氏への当て付けである。
絵は上手い下手で観るものでも、描くものでもないと思う。大観の作には余人にはない独自の妙味を感じる。
投稿のタイトルは、「拙の妙味」にしようか迷った。