あり在りとあり、只ただ生きる
シャルダンの描く静物画を評して放送大学青山昌文先生は「背後にある生活までも判る」としている。
閑長のなものが不遜であるが、同感である。
しかしあくまで観者の目線であって、シャルダンの作画意図の忖度としては行き過ぎと思う。
シャルダンは、満ちみちてある存在をただ描いたのだと思う。
金閣寺焼失を採り上げたNHKの番組で、僧侶で作家の玄侑宗久がインタビューに応え、
「近頃は生きる意味を探し、生き甲斐をでっちあげている」と言ったが感心した。生まれてきたから、生きるの
だ、とも言っていて、これにも共感した。とてもできそうにないのだが。
在るからあり、生きているから生きる、というのは傍から見ると実にうつくしい。