心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ 西行
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ 藤原定家
寂しさは その色としも なかりけり 槙立つ山の 秋の夕暮れ 寂蓮
和歌に「三夕の歌」があって、賞玩され比較されていることは小林秀雄の文で知った。三十代の事だったと思う。まだ「全作品」の刊行前だから、多分、文庫で読んだと思う。小林はいつもの調子でもって西行の歌を誉め、定家の作を貶めていた。寂蓮は黙殺に近かった。当時、一読して小林の真意がわからなかった。真意も何も、直情と印象で書いたものなのだろうが、定家の”なかりけり”のどこが拙いのか、測りかねた。以来、およそ三十年を閲して、今はハッキリとわかる。
後鳥羽院は西行を生得の歌人とよび、定家は生得の上手と評したという。得心。西行は歌に襲われ、定家は歌を詠じた。
しかしそう眺めてみると、寂蓮の朴訥さの滋味が、かえってよくわかる。
梅雨めいた長雨で、季節でもないのに秋づいてしまった。