宿命の円環
ボードレール「憎悪の樽」の最終段を長く理解しかねていた。疑心化された憎悪と、酔漢との境遇の違いが胸に落ちないのである。敵わぬ相手としての「酒」や、憎悪の片棒のような「復讐」も、擬人化されて登場してややこしい。岩波文庫 鈴木信太郎訳で最終段をみよう。
― だが幸福な酒飲みはやがて参ると解つてゐるが、
憎しみの担う悲惨な宿命は 食卓の
下に倒れて その儘眠ることさへ出来ない
近頃、出版書としてはマイナーな平岡公彦の「悪の華【1857年版】」を読んでイメージを抱くことができた。酔っぱらいは酒に飲まれてつぶれても、憎しみに安息は来ない、と宿命の差を言っているらしいのである。
― しかし幸いなる泥酔者は倒れ伏すことを知る
だが憎しみは哀れな宿命の虜となり
永久に食卓の下に崩折れて眠ることさえ叶わない
この解釈で、堀内大学、鈴木信太郎、安藤元雄、福永武彦、阿部良雄他の諸訳を読み返すと、ナルホドそういう意味のことを書いている。金子光晴は、酔っぱらいは“おつもり”を心得るが、怨恨は“正体”を失えないと俗っぽく対比している。
してみると、最終的な勝者と敗者はどうなるのか。閑長の俗解は次の通りとなる。
酔漢 < 酒 < 復讐 < 憎悪
さらに閑長は、擬人化された復讐も憎悪も結局は人に還ると考え、最右翼には再び酔漢が鎮座してこそ背徳の聖典と思うのである。