miyukie33ok’s blog

閑長のひとり言

閑長のひとり言

詩とことば

そのとき・・

経験では、句の後半が口をついて出て来る俳句は、良い出来と思う。投稿の前に調べたら、二句と結句というらしい。つまり、後半三分の二の、七・五のパーツである。七・五が決まると句を締め、メッセージが骨太となる。恰好付けずに有体に言うと、最近、発句…

言葉ならざるもの

プラトンの第七書簡に、言葉とは弱い伝達手段であって本当に大切なことは「書かれたもの」や「書物」には盛り込めない、とプラトン自身が記している。 国際間の肝心要の取り決めは、実は不文法で定められており、領土に関しては、力で決まる、と決められてい…

放り出すこと

詩人の高橋睦郎が、詩作するとは詩がやって来るのを待つこと、と語っていた。語りの相手は美学者青山昌文で、放送大学「美術の歴史と理論」の二回目の講義だった。閑長は詩人ではないが同感である。リルケは詩作とは待つことだ、と言っている。 詩人は続けて…

わび さび ひえ やせ

痩せと俳句は相性がいい。太るだと句にならない。夏痩の手に広辞苑 重きかな 岩崎照子 只でさえ重い。 夏痩にことさら触れで 別れけり 宮地英子 夏痩せの事には触れず 別れけり 加藤正子 還暦ともなれば誰でも心当たりがある。 夏痩詩人 ワインの栓も抜き兼…

「感覚に直接与えられたものについての試論」

少しでもジェンダーが絡むと失言の指弾を受け兼ねない昨今である。閑長もよく家人に暴走を戒められる。だが女流の魅力を語るなら、なにも心配なかろう。 詩と絵画、この両分野において閑長は、女流のファンであり、詩においては女流一辺倒に近い贔屓である。…

詩魂

詩魂という言葉は辞書で引いても載っていないが、安東次男と寺山修司の詩作と鑑賞眼は、この語でしか言い表せない。鍛錬や習熟、歳月や年季では達せられない深さがある。生得のものと思う。 以前からそう思っていたのだが、近頃安東の「与謝蕪村」を読んでい…

私、ことば、世界

「私がいないところ、自然は不毛である」 “Where man is not, nature is barren.”ブレイクの詩「The Tyger」の詩句である。キーツの詩だと思っていたら、ブレイクだった。「私の言葉の限界が、私の世界の限界である」 “Grenzen meiner Sprache bedeuteh die …

“逆”説的表出

ウィリアム・ブレイクの「地獄と天国の結婚」は逆説の書である。 その言葉は思考を活性させる。 「コントラリーがなければ、進歩がない。人間には、魅力と反発、理性とエネルギー、愛と憎しみが必要である」表現は挑発的で逆説的である。 「過剰の道は知恵の…

かなたの表現

「耳に聞こえるメロディは甘く美しい 聞こえないメロディはしかし、もっと美しい」 ジョン・キーツ「小さな真実は明晰な言葉をもつが、 大きな真実は大きな沈黙を持っている」 ラビンドラナート・タゴール こころを打つ知恵の言葉である。だが閑に任せて付け…

味噌は豆を煮て・・

今月6日の「われらそば蛮族」の投稿で、古代の蛮族が野牛の肉を、その胃袋に水と入れ当の牛の骨を焼いて煮るエピソードと、閑長のそば湯でそばを啜る習慣を似ている、と紹介したが、中国の故事を失念していた。三国志の姦雄曹操の二人の男児 曹丕と曹植にま…

言葉の文様

没後50年で三島由紀夫が取上げられることが近頃多い。自衛隊突入と割腹自殺がクローズアップされるのだが、本業の小説について三島は、自身の小説のメチエ、マテリアルを人生や思想などではなく、言葉であるとしている。言い切る点はさすがに鬼才である。 「…

限界ありて

数学は中学時代は得意科目、高校生になってからは敬遠科目となった。つまり幾何好きの、代数嫌いだった。 補助線好きで、それが幾何好きの理由の一つだった。余計な補助線は邪推に繋がると後でわかった。 数学に、自乗すると-1になる想像上の数字、虚数が…

宿命の円環

ボードレール「憎悪の樽」の最終段を長く理解しかねていた。疑心化された憎悪と、酔漢との境遇の違いが胸に落ちないのである。敵わぬ相手としての「酒」や、憎悪の片棒のような「復讐」も、擬人化されて登場してややこしい。岩波文庫 鈴木信太郎訳で最終段を…

曲者同士

ボードレールの『悪の華』に載っている「時計」という詩は、時計が擬人化して「覚ておけ」と読み手に七回も発破をかける。しかも「覚ておけ」をフランス語、英語、たぶんラテン語、もう一か国語は閑長には国籍不明の言葉を並べる念の入りようである。つまり…

黄金の時間と夜の森

「生きる時間が黄金のように光る」 人生の折々で思い出し、つぶやいてもみた村野四郎「鹿」の一節である。 国語の授業で習った一篇。フト思い立って中学時代の教科書をみたが見当たらない。ネットで調べて高一の教科書に載っていたことを知った。思えば中高…

、閑長の変則国語

句読点、余韻を背負ったことば-閑長の冥想句読点は普通、文の途中か、末尾に使われる。日本文法は法定されているわけではないが、常識だろう。 普通、文頭に句読点が付くことはあり得ないが、その状況をイメージすることはできる。たとえば俳句や短歌、詩は…