miyukie33ok’s blog

閑長のひとり言

閑長のひとり言

2021-02-01から1ヶ月間の記事一覧

写実と唐津と

焼き物はずっと備前贔屓で、五十歳を跨いだころから唐津好きになった。嗜好の変化を深まりとは言えまいが、年輪を重ねたことは事実と思う。 絵の好みは印象派から始まった。直にフォーヴ調に惹かれ、後期印象派、北方ルネサンスと続いた。ネーデルランド絵画…

廓のおもいで

テレビで「鬼龍院花子の生涯」を流していて思い出した。 閑長の卒園した幼稚園は、昭和の半ばまで遊郭だった。上田城の城郭が移築された施設として知られている。その建物が、昭和の前期、遊郭だった。 幼稚園生の朧なまなこではあるが、遊郭の佇まいは確か…

快著「近代京都日本画史」

展覧会図録を作成した経験でいうと、情熱を傾けた美術本かどうかは、索引とコラム、引用と注書きの多寡で判断可能である。この要件を高いレベルで充足し、詳細年表まで付いた、嘆息物の書籍「近代京都日本画史」が、昨夏出版された。 画家の主要作品が複数掲…

流転の末

本は、新刊として産まれ、古書として育ち、さらにその後、一部は資料、古典籍となり、残りは再生資源となる。その間、本の記載内容の一部は、文字から記憶や印象へと昇華する。 書痴的記述である。 人は、子として生を受け、多くは夫、妻となり、父母となっ…

迷言、妄言、第三弾

「打たれるとも出る杭となれ」 ← 男は打たれて鉄になる 「見どころのある角、それが圭角」 ← 丸けりゃ、転がるだけ・・ 「阿呆とウィルスはどこにでもいる」 ← 霞が関? 丸の内? 本郷? パソコンの前は? 日を跨いでしまい、前日モードで書き止めます。

ガロン画論

村上華岳の「画論」を読んで、この人ならばこそ聖性を備えた美を生み出せたものだと、山種の「裸婦図」や多くの仏画を目に浮かべた。文章には使命感と節度、それと意志が込められていた。 女三四郎といわれた柔道の山口香が著書で、アスリートに人格を重ねて…

権のエンタイトル

もう書いたとばかり思っていたが、武井壮のネット記事「中止なら“スペシャル五輪”でメダル授与を・・」を読んで、気になって調べてみたら未だだった。 エンタイトル五輪としてのオリンピック・パラリンピック運営。 世界各地の開催に支障の少ない場所での競…

先手と後手、コロナの場合

将棋は先手か有利で平均勝率は先手が53%という。タイトル戦で三勝無敗という場合、三勝は先手か後手かで評価がわかれるようだ。もし将棋が、両者、同時に差すというルールだったら、混迷がますか、勝負がすぐ着くのか・・、両方の場合があるのだろう。 コロ…

巨匠の骨は

東山魁夷の作品は静かである。 少し前、長谷川等伯の「等伯画説」を引いて「しずかな絵」と「いそがわしき絵」について触れたが、東山魁夷の作品などはなど、「しずかな絵」そのものである。代表作「緑響く」など、張り詰めていながら、それでいて静謐な世界…

産まれた時の言語風景

自分が産まれた年のコインや切手、時計には愛着がわく。産れ年の製造のレクターもいる。所さんは1955年のジッポをいくつも持っている、らしい。 閑長は、自分の産まれ年の言葉に興味があって、誕生年の1960年初版の国語辞典を探求している。刊行年ならまだし…

ハラスの偏在

森会長が会長辞任時「老害、老害といわれるのは不愉快だ」と言っていた。 自民支持でも、五輪開催論者でも、もちろん老害擁護・排斥論者でもない閑長だが、この一言には留飲を下げた。 喧伝される〇〇、△△、××ハラスメントだが、なんだか偏在してませんか。 …

不退転と “観”の眼と

藤井二冠が高校を中退して将棋に専心する。その意気やよし。 将棋には大局をみる “観” の眼が大切という。歳を重ね、境地と位が高まるほど、その重要度は増すという。 将棋を離れ数十年を経て、かえって将棋が強くなった、という話を聞く。離れていた間の経…

南風と馬鈴薯

なにげなく昔の画集をみていて和田三造の「南風」を目にし、ゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」を思い出した。人物配置が似ている。シテにワキ、ツレ、小役がそろって画面を固めている。役柄がある。どちらも労働者を描いた匂いのある絵である。 南風は、漁師に…

しろうと閑長の“白”談義

白の油絵具に凝っている。描きもしないのに、クサカベとホルベインの白を買い集めている。色、艶、質感、経時変化、ヒビの発生等々を調べる積りである。つい先日、レンブラントという海外のメーカーのミックスホワイトを手に入れ、この投稿を書いている。レ…

光悦考

なぜか光悦が好きになれずにいる。勤め人だったころ、僭越にも「光悦はなぜか合わない」と三分間スピーチかなにかでしゃべったことがある。その時、同じ仲間として土門拳しか挙げられなかったが、近頃よんだ陶器に関するの本で、心強い援軍を二人も見出した…

用をなすか、なさぬか

硯は長く使われないと死んでしまう、という。活き返らせるためには、人を雇って日に何度も、水に漬けては出し漬けては出しを繰り返し、それを三年ほど続けなければならぬという。白洲正子は、「茶碗や徳利、壺は、美術館に入るととたんに顔色が悪くなる」と…

“純粋”に関する無粋な話

西田幾多郎は、“純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたい”として、「善の研究」を著した。“絶対矛盾的自己同一”や“行為的直観”など、その後の西田の仕事をみると、“純粋経験”で目指したものは、対立・矛盾する立場を統合し、より高みを目指す自覚…

御伽草子と絵日誌 

長谷川等伯はその画論「等伯画説」で、「これにつけて思ふに、しずかな絵、いそがわしき絵など、心をつけて感ずべきことなり」と言っていて、共感した。共感というのが僭越ならば、意を強くした。閑長の絵画見立ての最高規範は、「しんとしている」か「騒が…

小さな、永遠の死

Alle Tode Alle Tode bin ich schon gestorben, Alle Tode will ich wieder sterben,私はすでにありとあらゆる死を死んだ。 これからもまた一切の死を死ぬだろう。ヘルマン・ヘッセの詩「あらゆる死」の冒頭部分である。 閑長の好きな詩で、ときおり、心の中…

跪き、抱きかかえ

江戸川乱歩のおどろおどろしい怪奇の世界、近頃テレビでちょくちょく放送され、原作を読み直して、谷崎潤一郎に似ていると思った。描く世界、話の展開、文体、みな似ている。サクッ、すらっといきさつを書き抜ける捌き方など、瓜二つと思う。乱歩の「パノラ…

額の眼差し

この絵を見た時、神聖さを感じた。本の扉絵として小さく採り上げられていたのだが、結局、その本を買ってしまった。 作家や画家など、文化人所有の名品は少なくない。川端康成旧蔵の「凍雲櫛雪図」「十便十宜図」は今や国宝である。川端は「美術品を観ている…

追想 米山城

昨日に引き続き、追想上田城の第二幕、米山城の段である。 上田城の北には攻撃と防御の固めとなる山城群が点在する。閑長の子供の頃は、昨今採り上げられることの多い砥石城より米山城の方が有名で、遠足でも行った。 頂上のような平たい場所に所々土を掘り…

追想 上田城

上田城は故郷のシンボルであり、遊び場であり、思い出の泉である。昨晩、テレビで城郭研究家の千田嘉博氏が上田城を「不滅の名城」として紹介してい、半世紀前の上田城の思い出が蘇った。 閑長は、上田城のお濠でスケートをした最後の世代である。遊びでもも…

危機が遊びに

開高健は男が夢中になれるものは危機と遊び、この二つと言っている。わざわざ “言っている” としたのには訳があって、NHK番組「あの人に会いたい」で語っているが、印刷物では未見である。噂では、茅ケ崎開高邸後の「開高健記念館」にはこの名文句が貼り…

奥へ内へ

点でも〇でも、真っ更な上に書けば注目し、視点が集まる。その分、宙に浮いてくるし、前にも出てくる。それを奥に、奥に描くのが絵だという。影や暈しのみならず、線の奥行きや描法にも左右されるらしい。だが、もっとスピリチュアルな何かが作用していそう…

鬼才の寄りどころ

没後50年で、三島由紀夫が再注目されている。三島は自身の小説のメチエ、マテリアルを人生や思想などではなく、あくまで言葉であるとしている。氏の婉麗・壮美な修辞は、言葉をよすがとしているのである。閑長も二十代の頃、三島の小説を数行読むだけで陶然…

外の眼、死人の役

以前テレビでお能を観ていて、死人が現れる場面があり、ラテンアメリカ文学を思い出した。ガルシア・マルケスの「百年の孤独」でもルルフォの「ペドロパルモ」でも死人が生きている人のように描かれ、キーとなる役を演じている。 死人の出るお能は「井筒」だ…

お隣の芝が・・

政治学者の舛添要一が以前、「民主主義が最良の政治システムと思っていたが、今の中国をみるとその考えが揺らぐ」と言っていて変に印象に残った。コロナ対策でも中国の対応とその成果は目覚ましい。スピード感があって、徹底している。人民に阿る必要がなく…