miyukie33ok’s blog

閑長のひとり言

閑長のひとり言

前原冬樹と洞穴の比喩

 前原冬樹の木彫一刀掘りの一体作品は、観るものの眼をくぎ付けにする。モチーフとした実物への思いがこみ上げてくる。
 これまで、こんなにも実物を見つめたことが無いことに気付かされる。見詰めている間は、作品と実物との境がなくなる思いになる。

開祖と教祖、そしてバイブル

 田川建三新約聖書の「訳と注」が滅法面白い。
 古代ローマキリスト教の布教史と近代日本の宣教戦略を目の当たりにする思いがする。
 妄想のアンケートを想像してみたい。
 ミスター・イエスに「どれが真実か」と問うたら、
 「みんな違うが、どんどん“ 違い ”が増えていく」と応えるのではないだろうか>

赤字は繰越し

 大相撲は今日が初日。前場所途中でコロナ休場した御嶽海は大関に残留したが、前場所七日目に、2勝4敗の星で休場したのだから、先行した負け星2つを今場所に持ち越すべきではないか。
 つまり10勝をもって今場所の勝ち越しとしたら、潔かろうに・・。
 赤字の翌期持ち越しは、ビジネス会計の世界では常識以前の話である。

 大関が横着関取りの " 横関 " とならぬよう祈りたい。

雄弁と寡黙

 植物にも心理がある、と植物学者が書いた本を読んだことがある。心理までいかずとも、動物並みの環境への順応性は実感する。植え付けて一、ニ年目は、音無しい。三、四年目には思い切り枝を伸ばすので、選定が忙しい。五年も経つ頃には、植え付けられた場所以上に枝を伸ばさぬようになる。
 その間、庭石は、くっついた苔の種類を少しづつ変えながらも、愛しむべき不愛想をたもっている。

六丁目事情

 スペインで自治運動の強い地域、過激に表現すれば独立運動が盛んな地区であるバスク、カタルニア、アンダルシア地方の共通点は、イベリア半島の海岸端、言ってしまえば「どん詰まり」に位置するということだろう。新参なのか、古参なのか。盤踞しているのか、追いやられたのか・・。
 
 閑長の実家は町の六丁目に所在し、その先の七丁目は存在しない。地域の人口増に応じて継ぎ足していった最後の地籍である。自治意識や独立運動はないものの、根無し草視、異邦人扱いされている・・という感じが、なくはなかった。

 六丁目の風趣は、“心なき身”でなく、“茲なき身”になにか近い気がする。寄る辺なき身が身に沁みる。

雨、あめ続けば・・

 九月の長雨の中、屋外の仕事や作業をしていると、紙と革が雨水、つまり「水」に弱い事を実感する。
 書類はヨレて文字は滲み、皮革は皺が寄って縮み、硬化する。
 極端を云えば紙文化、革生活は晴天文化の所産に思えてくる。
 平素の暮らしが雨天中心時々晴天であったならば、紙に代わって木か陶板、
 革に代わってゴムかビニールが基本素材となるだろう。
 人間はヒューマンではなく、フロッグマンと自称するかもしれない。

意味のつながり、ニュアンスの関連

 数日前、全体と部分について、「ものに部分はない」と書いたが、敬愛するボードレールの「悪の華」は、詩の並びにも意味が伴って、一篇の詩の解釈に前後、さらにその先の詩編の詩句やテーマが関係するという。
 ボードレール自身が詩の並びや選出に心を砕いて初版を出して後に改訂版をものしただけの事はある。
 つまり、詩書であっても前後に関連があって「ものに部分はない」と言い得る、とそう付け加えたいのである。福永武彦人文書院版の全集は、詩の並びも作品と見て、新旧の二版をそのまま収録してい、大いにお陰を被っている。今朝は「ばくち遊び」を堪能した。