miyukie33ok’s blog

閑長のひとり言

閑長のひとり言

目は口・鼻ほどに

 マスクをしていると皆、美男美女にみえる。
鼻から下は生活を現し、現実を見せるからだと思う。
目だけであれば、理想が実態をカバーしてくれる。
 
 してみると、目が口ほどに物を言うのは、
“こころ”について、であって、
目が伝えきれないモノも多いように思う。

 アウトボクシング

 碩学A.G.ラッセルが、若く頭がフレッシュに時は数学に没頭したが、中年になって頭の働きが衰えると哲学を研究し、老年と なった今は歴史を研究していると語っているが、共感してしまう。勿論、レベルの差はあるのだが。

 数学は切り結び、哲学は眺め渡し、歴史は受容する。
 どんどんと対象からは引いていく。

お坊ちゃま政治

アベノミクスは、
一本目の矢   二本目の矢     三本目の矢
金融緩和 + 財政支出(≒国債発行) → (新)産業創出
と書き表せる、と以前にも書いた。

一本目と二本目の矢は政治力で遂行可能である。うまく使えば選挙にも勝てる。
要するに、手段である。
三本目の矢は、一、二本目の矢のもたらす成果である。
つまり、結果である。
三本目の矢は、数の力では実現不能で、成否はいわば神の手に委ねられる。

税収が増えない中、国の借金が趨勢的に増加するなど、
結果が出ないのに手段を変えず、むしろ墨守するというのは、
理想や信念というより、政治センスの問題と思う。

誇り

 カジキマグロ漁を戦場とした小説は「老人と海」の他にもあった。
 フレデリック・フォーサイス「帝王」は読むに足る一冊である。あらすじの紹介はネットに譲りたい。
 「老人と海」よりも通俗である分、パンチの効きはよい。即効性がある。
 ただ、タイトル「帝王」”The Emperer”はやや即物的で、勝手に「海と太陽」と改題したい。

未来の跛行性

 映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 は1985年を基点とし、30年前の1955年と30年後の2015年を舞台にしている。過去はさておき、未来には「当り・ハズレ」があるのだが、未来予想が外れるパターンは、物体や物質のスケールや機能に関わる部分と感じた。つまりエア・カーやオート・フィット・スーツなどは実現しない一方、情報通信面は映画の描く2015年以上の進歩を遂げている。結局、人間という「ハード」のサイズや重さに縛られない微細化技術が関わる分野は想像通りかそれ以上に発展している。
 一つ確実なのは、いずれにしても貧富の格差は拡大するという事・・。
 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」には、政治や国際問題には触れていないが、これも微細化できないジャンルとみて、“ 進歩しない ” と見た方がよさそうに思える。

思いがけなく出会った、出会うべきもの

 「絵画の発明」という本を手に入れた。サッティスというイタリアの美術史家の作である。
 副題は「ジョルジョーネ”嵐”解読」とある。パラパラとしただけで未読である。
 
 絵画が、絵画表現でしか表せなかった意図と主題を、ジョルジョーネの謎多き名作で論攷した本とみられるが、絵画がこの世にあらわれるには、必然のほか偶然と、なにより自然が無くてはならぬと思う。
 だからタイトルは「絵画との遭遇」が相応しいと思うのだが、サテ読後感はどうだろうか。

レンブラントかラ・トゥールか、マネか

 『ゴッドファーザー PART II』の上院公聴会のシーンの最後で、組織の暴露を企て、言を翻したフランクと、シシリアからやってきたフランクの兄が、退出時にすれ違うシーンは傑作と思う。よくぞ撮った、コッポラ監督。
 兄弟に、マイケル、そしてケイ、トムの心理の描写が一枚の絵の様だった。
 巨匠に描かせたいと、本気で思った。