色褪せない標的
東京で学生をしていた頃、行きつけの床屋の店主に「ゴルゴ13」を書いているのはさいとうたかをじゃないョ・・と聞いて仰天した記憶がある。
デューク東郷ゴルゴ13の貌は、閑長の見る限り、5、6回変わっている。当初の貸本顔から劇画顔を経て、中年太って、ノッソリ顔となり、リターンして無骨になって、今日に至っている。変化はもっと多い、と言う人がいたら賛同する。要は書き手が都度、変わっていたのだと思う。さいとうたかを氏が実際に書いたのは「ビッグ・セイフ作戦」辺りだけなのかもしれない。
この間、サイドアームはあまり変わっていない。アーマライトM16カスタムとその子孫たち、S&W M36チーフスペシャル2inchs等々。今となってはローテクといえる武器である。M16については、さいとう自身が「自分は一人の軍隊である」とゴルゴに言わせ、使い続ける理由を説明している。苦しい言い訳である。ランボーが苦笑しそうだ。
だが21C、令和の今日、ゴルゴ13の意義はM16とM36に象徴される。ヒューマンテックとアナログ的判断、体技と集中性、精神性に、AIを凌駕するパファーマンスが期待されるのである。
デューク東郷と藤井三冠が重なってみえる。
時代とスペル合うと
大昔、外国為替の仕事をしていたころ、アルファベットをそれぞれ別の単語に言い替えることを教えられた。ビーとか、デーとか、似た音の聞き間違いを防止するためである。Aはアメリカ、Bはボストン、Cはカナダ、Dはデンマーク等々といった。こういう言い替えのことをスペルアウトと呼んでいた。
今朝のけさ、偶々、村上春樹の「風の声を訊け」をパラパラ捲っていたら、Aはアメリカ、Bはブラジル、Cはチャイナ、Dはデンマーク・・という件があって、時代を感じた。「風を訊け」は1979年の発表だから、教わったスペルアウトは随分古い時代の代物だったのだろう。
今、仮に、令和スペルアウトを作り直すとしたら、Aはアイス、Bはブログ、Cはやはりチャイナ、Dはドコモにでもなるのだろうか。令和30年、明成30年にはどうなっているのだろう。反対に明治元年だったら・・? いつか新造語と古語、上代・古代語を交えて26文字を空想してみたい。
地獄、それは・・
サルトルの言葉と記憶していたのが、「地獄とは他人だ」と「他人とは地獄だ」のサテどちらだったか・・。
ネットで調べたら前者だった。出典は主著の一つ「存在と無」という。
人は、自分の価値や存在が、常に他人の目に晒され、判定されている。サルトルは、その眼差しから永久に逃れられない状況を地獄と称したという。言われてみれば確かに地獄と思う。サルトルは続けて、他人のまなざしがもたらす危機について「見る」か「見られる」かの決闘だとしている。
しかし晒されている、判定されているという意識に苛まれるとすれば、それは自意識に他ならない。自意識に行き着くとすれならば「地獄とは自意識だ」となってしまう。こちらも地獄に違いない。
イヤハヤ、浮世に地獄は多い。
脳が痒い
今夏に受けた脳ドックで “ 頭頂葉に1㎝大の腫瘍の疑い有 ” となって、精密検査を受けた。以来、妙に脳が気になり始めた。脳が他者となった。
自分との対話と脳との対話の違いは、口述も筆記も自分なのか、口述は脳で筆記だけ自分なのか、という違いだと思う。つまり、考えや思いを整理するのが自分との対話で、自白を求める調書が脳との対話である。丸山真男の「自己内対話」は前者だった。谷崎潤一郎の「黒白」は後者の変型と思う。
しかし、今、脳の事を考えている自分がそれを投稿記事にしている、その記事を書いているのは、自分か脳か。
こういう状態をフラクタル構造とかスパイラル構造に見立てるのは、自己の賢しらか。脳の差し金か。
12,000円掛った再検結果は、単なる脳の萎縮ということで、落着した。
そういえば近頃、帽子が緩くなった。それに気のせいか脳ミソのかゆみを感じるようになった。