開高健と「等伯画説」
自己中鑑賞者の閑長は、「“しん”としている」か「騒々しい」か、を絵の判定基準としている。「“しん”としている」絵を愛好し、「騒々しい」絵は、評判が高くても敬遠している。端的に言うと好まない。“しん”は、閑かという意味だけなく深く、強い美を意識している。この見立てについては、寄す処としている二書がある。
開高健は『ピカソはホンマに天才か』で、「“押しつけがましさがあるかないか”を唯一の鑑識眼とする」、と書いている。一応、著名な美術評論家の受け売りとして紹介しているが、ご当人の本音とみて間違いなかろう。文の人であっても、美の人とは言い難く、美食家ではあったが、美術からは縁遠く思われる作家だけに、かえって先入観や賢しらのない言葉に思え、記憶にとどめている。
長谷川等伯が口述した『等伯画説』には「これにつけて思ふに、しずかな絵、いそがわしき絵など、心をつけて感ずべきことなり」との一節がある。閑長はこの書を『日本思想体系』で読んだのだが、その解題には、「にぎやかな絵」「一段媚びたるようにて媚びぬ絵」「ひややかなる絵」などの評語が、実例付きで紹介されていて、おおいに啓発される。
“しん”とした絵をたくさん観たい・・
「等伯画説」はかの鉄斎も書写している(ネット収集画像)
二階・入り子構造
「不思議の国の信州人」という本が七つの信州人のタイプを挙げている。仰る通り信州人は地域ごとに結構異なり、人括りにできない幅を持っている。土地が南北に長く、山、谷、峠、川などで仕切られるという物理的な環境があること、それと、古くからの伝統、交流、出自などの違いを背負っていること、など、様々影響していると思う。
七つもの性格背景には、信州文化の二階・入り子構造があると思う。「人」でいうと、信州人としての側面と、もっとコミニュティな、例えば上田人、飯田人としての貌の二つを知らず知らずにもっている。それが一人の人格の中に混ざり合わずに共存している。例えば、ズク無しの部分は共通で、プラス優柔不断であったり、俊険な性格だったり・・。
県内各地で勤めてきた閑長の見立てである。
もしかするとこの記事、以前にも投稿したかもしれない。
爺ぃの時事問題
秋篠宮真子様の婚約者小室圭氏が文書を公開し、しきりに「借金でない」と主張しているが、問題はそこではない。借用書がなく、貸した・借りたと言っていないのだから、借金ではないことは明々白々で、小室氏は安全圏で空論を並べている。
論点は母親の元婚約者からの資金移動を今、どう整理するかなのだが、婚姻を前提とした前渡金は、婚姻したなら生活諸費用の前払いであって法律問題にはならない。婚姻しなかったのだから、“準”贈与として整理するか、はたまた過失と使い道等々によって、両者で返戻割合を決める、のいずれかである。
ともあれ、小室氏は一方の当事者なので、都合よい言辞を並べて致し方ないが、ワイドショーのコメンテイター諸氏は、この点をしっかり整理・追及せねば、チコチャンに「ボ~と座ってんじゃねえよォ」と𠮟られまっせ。