miyukie33ok’s blog

閑長のひとり言

閑長のひとり言

吹いても飛ばない一手目

「将棋の勝敗は全て一手差、私と素人の方が差しても同じです」と語ったのは、当時、名人位にあった大山康晴だったと記憶する。対談かなにかで読んだとき、単純に“そりゃ、二手続けて差せれば、誰でも勝てるサ”と早合点したものだ。もっと深い意味と将棋観で語ったのだろうが、対局中に一度でも“連続手”を差せれば渡辺竜王名人にも藤井二冠にも勝てるのは間違いなかろう。王手即詰み、で、相手の王さんは逃げる余裕はないのである。

 見方をかえれば盤上の駒が一手目の役割を担ってくれれば、二手続けて差すのと変わらない、と言える。盤に自軍の十五駒がのっているとして、どれか一駒が連続手の一手目の役目を果たし、次の連続手の二手目で詰みである。他の駒はそこまで追い込む役割を果たす。これが将棋の勝パターンと言えるのかもしれない。
 どの駒が連続手の一手目となるかは、終盤まで判らないから、序盤から一手一手に一手以上の役目を持たせると良い・・。
 そんな七面倒くさい表現をしなくても、要は大局観、ヨミだよ・・と叱責されそうだから、この辺で閑長の雪隠詰による敗着とさせて頂きます。 
 
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物理のモノ、数学のコト

 湯川秀樹博士は自伝の「旅人」で、高等学校時代に数学と物理の選択に迷い、結局、物理を選んだいきさつを書いている。一つ一つ脱線せずに積み上げていく数学のアブローチ方法を敬遠し、物理を選んだらしい。厳密な理論と、自由な発想の物理との相性が、後のノーベル賞に結び付いたようだ。
 以前このブログに書いたモノとコトに準えれば、数学も物理も「もの」と「こと」の両面があるが、物理はよりモノの要素が強いといえようか。モノとして世界を動態的に捉える物理には飛翔する発想が強い武器となる。
 湯川秀樹がもし数学を専攻していたらフィールズ賞をとっていただろうか。数学には新分野を開拓する学問という貌もある。レネ・トムはカタストロフィー理論で連続が破局する世界を描写した。グロタンディークはスキーム理論で、それまでの代数幾何学を大幅に書き直したという。「佐藤の数学」で知られる佐藤幹彦は、数学を“作る”数学者として知られている。
 もし湯川博士が数学を専攻していたら、その数学は既存の数学の間を架橋するような理論だろうか。

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刻まれる

 数学者でエッセイストの藤原正彦は、父であり作家の新田次郎に「一つの文章に同じ言葉を二度使うな」と言われたという。今に戒めとしている寸言であるが、記憶を紐解くと例外がたくさんあって当惑もする。
 学生時代、生協で上下二冊本で買った志賀直哉の「暗夜行路」は、書き出し部分に“力こぶ”という言葉が何回も出てくる。力こぶを入れて伝えたいにしても、学生時代も気になったものだ。
 文章読本は作家ごとにある、いうのが実情なのかも知れない。読み手の感想をいえば、二度、三度使われると印象に残る。文の目印ともなる。それを一回だけ使うと、念が込められる。
 
 絵描きも同じと思う。得意な構図、人気のモチーフ、決め手の色は、惜しみ惜しみ使って活きる。

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 山本弘「秋雨」 山本弘は白を得意とした。

ソロとアイコンの時代

 勤めを止して靴が変わった。皮のビジネスシューズが、スニーカーと運動靴になった。靴が変わるとズボンが変わり、ベルト、インナー、アウター、そして帽子に及んだ。靴に服があわないと様にならない。こういうのを下部構造が上部構造を規定する、とマルクスを引いて笑いを取ろうとしても家人は理解しない。
 契約関係は相隣関係に、上下関係は年上・年下関係になった。敬語が丁寧語になり、説明することが減って、説明される側になった。趣味が本業となった。商品が人になったと言えなくもないが、総じて密が疎になった。商品は群れるが、今日、人は散じる。ソロキャンプもだから流行る。これはコロナのせいばかりではない。

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流れる

 人気画家にも流行があって、若冲フェルメールは半世紀前にはさほど騒がれていなかった。閑長が幼いころ読んだ美術画集に、若冲の絵はは小さく二点、フェルメールはデルフトの眺望しか掲載されていない。当時はマチスとルオーの時代だった。
 今、流行と書いているが、はやり廃り、潮流、潮目の変化、時代を映じる、など、表現する言葉も色々ある。どの言葉を選ぼうが30年、50年を経てどう評価されるかは、実際に時間が経ってみないと解らないので、結局、今の自分の眼で見つめ、判断するしかない。けれども自分自身の眼も判断も固定的ではなく、行き来し、熱しては冷め、訪れては、又流れ往くものだから困ってしまう。ルオーに傾倒したかと思うと、劉生に心酔し、その影響で北方ルネサンスに嵌ってきた。実際にこういう体験を重ねると、ベルグソンの時間論、“自分自身を内省すると流れを感じる”という言葉が胸に落ちる。浅薄な素人解釈かもしれないが、賛嘆したくなる。
  
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毒消しビイル

 小沼丹を読み返した。一時田村書店の主人が「小沼丹も知らない奴は店に来るな」と弩やかして、知られるところとなった文学者である。読むと井伏鱒二日夏耿之介谷崎精二ら、早稲田文学の面々が出てくる。
 一冊読むか読まぬかする内に小沼の語りに浸っている。深呼吸をしてゆっくり息を吐いた心持ちである。解毒作用がある。困るのは、ピールをピイルと書いて、読むたびに喉が鳴ることである。しかもビイル、ビイルを飲んだと、実によく出てくる。小沼のビイルは伝播する。
 作品に戻って、小沼の文には思い出が多い。誰彼、どこそこ、何時いっかの思い出話が幻想のように語られる。実際、故人が現れる話も多い。何を“可笑しい”と感じるかでその人がわかると言ったのは確かゲーテだったが、なにを思い出と感じるかで、人となりと人生の行程がわかる気がする。

 晩年小沼は、健康上の理由でピイルを思うさま飲めなくなったらしい。その所感をどこかで「なんとも情けない」と書いていた。その語り口が恬淡としていて、ビイルを飲むとき、フト思い出す。
 
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孫悟空の立て看板

この投稿の結論はこんな感じである。もちろん閑長の管見である。 
・現代アーティストの奇抜でチャレンジングな作品群は、ここまで来たぞ、その眺望はこうだ、というテーゼである。
・意気やよし。問いかけのための問いであっても意義はある。
・だが、その先は多産・豊穣か。
・ある作家は、その後のアートの源流、母胎となるかも。
・ある作家は、デットエンドの指標となるかも。

森美実感で開催された展覧会の、NHK日美のキャッチはこうだった。

「STARS それぞれのデビューから現在」
 草間彌生李禹煥杉本博司、宮島達男、奈良美智村上隆。1950年代から2000年代まで、それぞれの時代で日本を飛び出
 し、世界に衝撃を与えた6人です。彼らは、いつどのようにして世界に認められ、今何を考えているのか。「出世作」と「最新作」
 を通して、日本の現在地を読み解きます。豪華な対談とインタビューは必見!

 その先は多産、豊穣であるか? デットエンドもなくはない・・と思うから投稿するのである。
 作家本人に尋ねたわけではないけれど、自分の段階で既にして十分な成果であってそこから先は与り知らぬ、ではイヤになる。

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